10期生の広場
 
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2007,06,13 読売新聞より

ハイテク支える  熟練の技伝承  心鍛え「匠」育つ四半世紀ぶり  「五輪」に門下生  敗退バネに復活

 技能五輪でのメダル獲得を目指す“門下生”の練習を見る徳永さん(右)。「話を素直に聞く、身なりを整える、といった社会人としての基本と基礎ができていないと、技能は身につかない」という(大阪府門真市で) ハイテクを駆使した最先端の生産技術の研究などを担う松下電器産業の生産革新本部(大阪府門真市)。毛筆で「技能道場」と大書した看板を掲げる部屋が、その一角にある。 
 金属を削る音が響き、油のにおいが漂う室内。 若い技術者たちがヤスリを手に機械部品を一つ一つ加工し、組み合わせていく。 「姿勢が悪いなあ」「もっと丁寧にやれよ」。指導員の徳永昌孝(54)が厳しい声をかける。
 「特殊産業用機械組立工」として、2006年には厚生労働省の「現代の名工」にも選ばれた熟練技術者。道場では9年前から、師範役を務める。

 加工した部品の凹凸を測定する技術者の手もと。高い精度とスピードが要求される 門下生が目指すのは、技能五輪。23歳以下の様々な職種の技術者が、毎秋の全国大会と隔年の国際大会で旋盤や板金から美容、料理まで数十種目でそれぞれ腕を競う。徳永の下では社員3人が「機械組み立て」のメダルを狙い、修業している。

 約10点の部品を数十本のヤスリで加工し、課題図面に沿って7時間で組み上げる競技。誤差100分の1ミリ以内の精度、スピード、効率性。一つでも欠けると上位は望めない。

 作業台の清掃、ヤスリの並べ方、さらには服装、髪形。そんな「基本姿勢」が大切だと、徳永は説く。

 「技術だけでなく、それに心を加えた「技能」を追求するのだという。」

 徳永は1969年、松山市の中学を出て松下電器の企業内学校「松下電器工学院」に入った。大阪万博の前年の高度成長絶頂期。10代の新卒労働者は「金の卵」と呼ばれた。
 3年間の工学院を終え、入社2年目で技能五輪の板金加工部門に出場した。「金を取る自信はあった」。が、本番では気になる部分があったのに「まあ、いいか」と制限時間前に手を止めた。結果は140点満点で1位と2点差の銀。痛恨だった。「ものづくりに『まあ、いいか』は通用しない」。思い知った。
 その後、ビデオの試作機を手がけた。上司の田伏陸夫(63)がある時、徳永の仕上げた部品に雑な物があると気づいて「こんないいかげんでいいのか」と声を荒らげた。社内の人間しか手にしない試作品でも「すべてがお客さんだと思わなければ、いいものはできない」というのだった。技術者の矜持(きょうじ)を徳永は学んだ。

 洗濯機の音を静かにするモーター設備の開発を担った32歳の時。納期が迫り、徹夜の作業を続けても、目指した水準のものができなかった。だが、上司の原田寛(59)から、技術だけでなく人の配置や作業の進め方が問題だと指摘され、指示に従うと一転、開発が一気に進んだ。

 原田も工学院出身で技能五輪経験者。いつも「仕事は段取り。流れでとらえるんや」と言っていた。手先の技術にとらわれ、仕事の全体像を見ていなかったと、徳永は省みた。

 「仕事は見よう見まねで覚えるんだという職人肌の人が多かった」。二またソケットを考案した創業者の松下幸之助(1894〜1989)以来の「ものづくり遺伝子」は脈々と受け継がれていた。


力強い墨書の看板がかかる技能道場。ものづくりの見直しで、同じような部署をつくる企業も多い 点検修理が43万台にのぼった欠陥冷蔵庫、テレビ発火事故。松下電器では90年代の半ば、製品の不具合が相次いだ。ヒット商品も出ない。

 「ものづくりの力が落ちている」「若手に技能が伝わっていない」。危機感が高まった。

 高度成長後の約20年。先端の工作機械が導入され、手作業が減った。若い技術者らが減少。「金の卵」を運んだ集団就職列車は、75年で打ち切られた。技能五輪に63年の第1回から参加、計60人以上を入賞させた松下電器は、徳永が出た73年で選手派遣をやめ、工学院も閉鎖した。

 現場は著しく様変わりし急いで若い「匠(たくみ)」を育てないと熟練技術者が高齢化する、2007年からの団塊世代の大量退職で、その技を伝承する機も逸する、という声が強まった。

2000年の技能五輪に参加した徳永さん(前列右端)ら松下電器の選手、コーチら。技能道場から選手を出して2回目の大会で、初の入賞者3人が生まれた(埼玉県で。徳永さん提供) 技能道場はそんな中で98年に開設され、徳永が指導員に就いた。

 99年に静岡県で行われた技能五輪の全国大会へ、松下電器は四半世紀ぶりに選手2人を送り込んだ。

 だが、上位には、入れなかった。宿舎に戻った選手の中村健太朗(27)は「申し訳ありません」と泣き崩れた。「緊張からか、競技中には頭が真っ白になった」と振り返る。

 徳永も、悔やんだ。どう教えればいいのか、わからないまま、中村らを送り出していた。

 「もう、若者を泣かせられない」と、トヨタ自動車や、日産自動車、デンソーなど技能五輪の常連企業を訪ねて回った。企業秘密もあって、詳しい訓練方法は探れなかったが、担当者と話すうちに「これから日本を背負う若者を育てていこうという仲間意識」を感じた。座禅や自衛隊での研修なども取り入れ、技とともに「心」を鍛える工夫を重ねた。

 00年に銅、01年に金を取り、03年には機械組み立てと「フライス盤」の2種目で金を獲得。経営悪化時の00年に社長に就任し、大胆な改革で「V字回復」を果たした会長の中村邦夫(67)からも直接「いい報告だ。ありがとう」と声がかかった。技能道場は「ものづくりの復活」の象徴にもなった。


 入社4年目の景山佑亮(21)は05年に銅メダル、06年に銀メダルをそれぞれ獲得。今年は「金」を狙う。

 島根県の工業高校3年の時、実習で自動販売機を設計、ものづくりの楽しさに目覚めた。入社して1年間の基礎訓練の後、器用さや体力などを買われ、徳永らの面接を経て道場へ。「メダルが目的ではない。ものづくり現場を将来、リーダーとして引っ張る訓練だ。技術さえ良ければいい、というのではだめだ」と初めに聞かされたのが、耳に残る。

 道場からは既に11人がそれぞれの職場へ巣立った。これから指導役を担う。1期生の中村も今はまだ製造ラインの一部で、下働きをしているが、道場で学んだ姿勢は忘れず持ち続け、伝えていきたいと思う。

 生産コストの安い海外企業に対抗するには、技術力を高めるしかないとして、国内企業がいま、こぞって「ものづくり」を見直している。

 「ものづくり企業にとって、技術の伝承とは、世のため、人のためになる品を開発し、つくる人材を育て上げること」と徳永は心得ている。

日本、18大会ぶり1位
 技能五輪全国大会は厚生労働省の外郭団体の中央職業能力開発協会が主催、23歳以下の1000人余が参加する。競技種目は06年から加わったウェブサイト(ホームページ)制作を含め、47に上る。

 アーチェリーで豪シドニー(00年)まで五輪に5回、出場した松下和幹(54)は三菱電機和歌山製作所に勤めていた20〜21歳の時、旋盤工として技能五輪に連続出場、2年目に10位になった。アーチェリーを始めたのは、集中力を高めて技能五輪に役立てるためだった。

 全国大会でのメダル獲得者は国際職業訓練競技大会(条件は22歳以下)に出場できる。日本は70年に金メダル17個を獲得するなど、80年代前半まで上位を占めたが、その後は韓国や台湾などの台頭もあり低迷。前回の05年大会で日産自動車、デンソー、日立ハイテクノロジーズの技術者らが計5個の金メダルを取り、18大会ぶりに国・地域別の金メダル数1位になった。


団塊の退職「危機」41%
 経済産業省などがまとめた06年度の「ものづくり基盤技術の振興施策(ものづくり白書)」によると、団塊の世代の大量退職に伴って技能伝承に危機を感じている企業は、製造業で41%に上った。企業側の対策としては▽OBを指導者として再雇用=39%▽中途採用を増やす=34%▽雇用延長や嘱託としての再雇用=33%▽若年者の採用増=24%――などが目立つ。退職後に再雇用された団塊世代が65歳になって仕事から完全に引退すれば、経済成長に大きな悪影響が出かねないとする「2012年問題」もささやかれている。

文・杉目 真吾、写真・金沢 修、文中敬称略

(2007年06月13日 読売新聞)
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読売新聞、THE DAILY YOMIURI より 
      
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